episode 6

田安門前のサクラ、明治から「昭和のサクラ」へ

 九段坂を上り、田安門前の急坂に入ると、両側に今や姥桜となったソメイヨシノの並木がある。このソメイヨシノが植えられたのは、昭和初年の震災復興事業だった。もうすぐ100年をむかえる。おそらく千代田区で現存するソメイヨシノで、一番の老木に属するものだと思う。

 今回は、関東大震災後の復興事業で大きく変わった田安門前のサクラ、そして、昭和の街路並木や公園でのサクラの名所を追い掛けてみよう。

1 明治期、田安門前のサクラと路面電車

 エピソード2でもふれたが、明治5年に、九段坂にソメイヨシノが植えられ、坂は招魂社への参道のようになった。堀端に樹木が植えられることは、江戸期には無く、初めてのことだった。それは、見附も同様で、門前の土橋に樹木が植えられることもなかった。

 九段坂は、江戸期には、段差が九段もあり、車は上れなかった。明治2年(1869)には、広げられ段差もなくなった。そして、神田方面から小川町通り、すずらん通り、さくら通りを経て、直に招魂社まで、人力車でもこられるように道路が整備された。

 さらに、明治20年(1887)代には、市区改正事業で現在の靖国通りの原型が誕生し、路面電車が須田町から九段下まで来るようになった。そして、明治30年(1897)代の終わりには、市ヶ谷から靖国神社の脇を通り、現在の千鳥ヶ淵緑道から半蔵門、赤坂見附を経て、青山に至る路面電車もできた。

 明治39年(1906)になると、九段坂は坂の勾配がきつく、路面電車がのぼれないため、濠沿いに専用軌道をつくる工事が始まった。

写真① 明治12年(1879)に建設された剣碑とサクラの植栽

 明治12年5月、近衛諸兵より西南の役(明治10年(1877)1月~9月)の戦没者の慰霊記念碑が奉納され、田安門前の土橋にはサクラなどが植えられた。これにより、明治5年(1872)に植えられた九段坂のサクラ、田安門前、そして坂上広場、靖国神社境内のサクラと一帯がソメイヨシノでつながり、明治の桜林が誕生した。なお、明治2年創建の「東京招魂社」は、明治12年6月に「靖国神社」と改称される。

写真② 明治30年(1897)代の九段坂

 九段坂を上り切った場所は田安門前で、堀端には、明治5年(1872)に植えられた桜樹があり、坂の両側には電柱が林立していた。

絵図 ① 靖国神社参拝案内図及注意書

 明治40年(1907)7月6日、図のように、路面電車の軌道が九段下と九段上でつながった。須田町から来た路面電車は、九段坂を登り、現・千鳥ヶ淵緑道から半蔵門前を経て、三宅坂から赤坂見附を経て、青山へとつながる、春は花見のできる電車だった。

 ちなみに、この図は、大正4年(1915)4月に開催された春の例大祭へ参加する第一次世界大戦での戦没者遺族のために配布された案内図である。当時の神社外苑は、九段公園とよばれた広場状の参道となっていて、例大祭の時、広大な縁日会場として興行物や露店に割り振られていた。

写真 ③ 明治40年(1907)代の九段坂

 路面電車の専用軌道整備は、牛ヶ淵の法面を削りつくられた。このため、堀端のサクラは、剣碑付近を除き、全て撤去となった。

写真 ④ 千鳥ヶ淵から田安門前を見る

 写真のように、田安門前の通路は中坂まで平坦であった。桜樹の間にニコライ堂も見える。写真の橋は、「田安橋」と称された。写真左端の銅像は、明治40年(1907)8月に竣工した品川彌二郎の銅像で、明治39年(1906)6月に竣工した川上操六大将の銅像は、木々に隠れて見えない。専用軌道は法面を削りとってつくられたが、余裕のない場所は写真のように石垣で補強された。この石垣は現存している。

写真 ⑤ 明治4  0 年代の田安門

 田安門は、明治6年(1873) から近衛歩兵連隊の裏門として使われていた。明治12年(1979) に植えられた桜樹などは、土橋の法肩でなく、通路の内側に植えられている。通路は現在と比べると狭く平坦である。手前の柵は「田安橋」の欄干で、下を路面電車が走っていた。

2 震災と九段坂改修工事

 大正12年(1923)9月1日の関東大震災が発生し、神田から九段下まで一面が焼け野原となる。エピソード1で見たように、靖国神社外苑には、地震から1ヶ月も経たない内に、九段バラックが急造され、2649人もの罹災者が生活していた。そして、現・九段会館の辺もバラックが作られ、多くの人が生活していた。震災から1年半後の大正14年(1925)4月には、これらのバラックは撤去となり、震災復興事業が始まった。

 復興事業の中心的な事業として、東京下町を南北に貫く「昭和通り」と東西に貫く「大正通り(現・靖国通り)」が計画され、九段坂は、亀戸から下町を横断して市ヶ谷に至る重要な場所=復興事業の華として位置付けられていた。

 改修工事は、大正14年(1925)~15年にかけて行われ、急坂を削り、路面電車が上れるよう専用軌道の勾配に合わせて削られ、濠の中に新たに擁壁がつくられ、坂の幅員は22m(12間)から39m(21間)に広げられ、電車軌道は車道の真ん中へ据えられた。計画は、当初、坂の勾配をさらに緩くするため、俎橋から坂の中程まで陸橋を架け、九段下交差点を立体交差にする計画であったが、予算の都合で中止となり、現在の形となった。

写真 ⑥ 震災直後、九段上より神田方面を見る

 写真中央のニコライ堂は尖塔が倒れ、ドームが落ちている。右側のスズラン通りの先に文房堂の建物が見える。現在、三省堂前にファサードだけ見ることができる。現・昭和館のところには、避難民のバラックがすでにつくられ、濠へ降りる道もできている。 

写真 ⑦ 九段坂改修工事

 改修工事は、坂の上り口を田安門前から現・緑道前にすることで、坂の勾配を緩くするものだった。これにより、田安門前は、約18尺(5.5m)も削られた。そして、切り下げられた九段坂に合わせて、田安門前の土橋も削られたため、現在のような急坂が誕生した。

 また、この工事は、坂上の高さや道路線形が変わったため、靖国神社前の高燈籠や花崗石大灯籠はもとより、坂上の記念碑や銅像、中坂側にあった消防署まで、移設移築の対象となる大工事だった。

 写真は、路面電車の勾配に合わせるように、坂が削られている。現在ある歩道橋の高さが、削られる前の坂上の高さだということが分かる。

 九段坂は、道路脇に林立した電柱をなくすため、電線や水道管などをまとめて地下に埋設するための共同溝が日本で初めて作られた場所だった。写真中央に並んでいるドラムは、共同溝に配線工事をするために用意されたケーブル類である。 

絵図 ② 九段坂上田安門前両側法肩植栽平面

 図は、復興局によるもので、田安門前の土橋は、急坂になると同時に、九段坂側が広げられている。現在のサクラの位置と比べてみるのも面白い。また、千鳥ヶ淵の桜は昭和30年(1955)代に植えられたもの、牛ヶ淵は昭和60年(1985)代に植えられたもの、昭和初期の田安門前の樹形を比べてみるのも面白い。

写真 ⑧ 昭和初年の田安門

 明治12年(1879)の時と違い、昭和初年の桜樹は、通路端ではなく、土橋の法肩に植えられている。門の奥にある建物は、近衛歩兵連隊の面会所として使われていた。

 今年で昭和100年、このサクラも100年をむかえようとしている。今、老木となったこのソメイヨシノ、車も通らず、人に踏まれることもなく、自由に枝を伸ばし、毎年、花を咲かせている。しかしながら、一度、その姿を見直しみてほしい。老いた姿にしては、余りにも疲れている。次の次の世代のために植え替えることを、もはや実施せねばならない時期に来ていると思わずにはいられない。ぜひ、「桜AIカメラ」で撮影してほしい。

写真 ⑨ 昭和初年の九段上広場

 写真右側の田安門の渡櫓は、震災で損壊したため、撤去され、門の上に屋根だけが載っているのが分かる。写真は、移築された麹町消防署・九段出張所から撮影されたもので、手前の建物は公衆便所、その先の銅像は川上操六大将の銅像(昭和18年に金属供出となる)で、現在は大山巌銅像が昭和39年に設置されている。

 さらに、現存する品川彌二郎の銅像であるが、震災で倒壊し破損したため、新しく作り替えられている。その先の高燈籠は、昭和5年(1930)に移築されたが、高さが6m近く低くなってしまった。また、田安門前の剣碑は移設されているが、昭和18年に金属供出され、現存は北の丸公園の大きな看板が据えられている。

 震災復興後、九段坂の桜林は、田安門前のサクラ並木だけとなってしまった。

3 震災復興事業の街路並木、サクラ・ヤナギからイチョウ・プラタナスへ

 明治期に植えられた街路並木は、桜と柳が主流で、麹町区では、桜が480本、柳が1075本もあり、これで全体1904本の8割近くを占めていた。神田区でも、桜が108本、柳が639本で、これで全体806本の9割以上を占めていた。(明治37(1904)~38年調査記録による)

 震災後、復興局の手で整備された幹線道路の街路並木は、スズカケが45. 1%、イチョウが28. 3%で、この2種類の樹種で全体の73. 4%となっている。逆に、サクラ、ヤナギは合わせて5%にも満たなかった。明治の街路並木から昭和の街路並木に大きく樹種の構成が変わったのだ。

 この結果、戦前の千代田区エリアでは、スズカケが3,136本、イチョウが2,993本あり、この2種類だけで全体10,223本の60%を占めるようになり、サクラは752本、ヤナギは513本で合わせても12. 4%たらずとなった。これにより区内の幹線道路景観は大きく変わることとなった。区内では、東京駅前の行幸通り、国会議事堂周辺等、イチョウが多く植えられた。また、神田方面では、夏の木陰を意識してか、プラタナスが多く植えられた。

写真 ⑩ 昭和の街路並木としてのイチョウ

 九段下から市ヶ谷駅にかけての大正通り(現・靖国通り)は、靖国神社辺の既存歩道にあったサクラは一部残ったものの、イチョウ並木が主体の道路に変わった。

 イチョウは、樹形を幾何学的に剪定しやすいこともあり、整然とした奥行きのある街路空間をつくるのに良く使われた。靖国神社外苑も大正4年(1915)に参道として改修され、60基の石灯籠が参道両脇に戻されると共に、イチョウ並木も整備され、明治期にサクラが九段坂から境内へとつないだように、昭和はイチョウが坂とのつながりを示すようになった。

写真 ⑪  昭和4年(1929)、東京駅前のイチョウ並木

 現・行幸通りが竣工した時の写真である。4列植栽で整然と並ぶイチョウと高さ壁面のそろった街区、アイストップとしての東京駅、ビスタ景の見本のようなつくりである。典型的な昭和の街路並木の誕生である。

4 昭和11年(1936)頃、桜並木の名所

表 ① 昭和の桜並木名所

 イチョウやプラタナスが街路並木でよく使われるようになったとはいえ、サクラも復興事業で植えられ、昭和の桜並木の名所として、紹介されている街路がある。この表の資料から、千代田区エリアの街路を紹介してみよう。

 なお、資料の中の「五番町-竹橋(現・代官町通り)」の山桜は、現在も見ることができ有名である。昭和7年(1932)作成の道路台帳平面図で調べると、219本の樹木が歩道に植えられているのが確認できたが、街路並木が整備された時期が震災前なのか、後なのか特定できなかった。ここの山桜の由来について知っている方がいれば、是非、ご教授をお願いしたい。

写真 ⑫  昭和初期、内堀通りの桜並木

 震災復興事業で拡幅新設された内堀通りを九段坂からの路面電車が通ることとなった。そして新たにソメイヨシノの並木が内堀通りに植えられた。

写真 ⑬ 昭和1 2年(1937)頃の内堀通り

 写真は、現・代官町通りからの交差点付近から靖国神社方面を見ている。震災前の路面電車は、写真右側の現・千鳥ヶ淵緑道から英国大使館前へ通っていたが、写真中程の部分が新設されたため、九段上から真っ直ぐ通れるようになった。写真左側の新設歩道にサクラが植えられ170本のサクラ並木が誕生した。

写真 ⑭  昭和1 2年(1937)頃の英国大使館前

 写真右側が英国大使館、アーネスト・サトウが明治31年(1898)に植えた桜樹が大きく育ち、その車道よりには一段高くなった歩道が整備されている。写真左側は、239本のソメイヨシノが植えられていた千鳥ヶ淵公園で、昭和のサクラ並木は、明治の桜林とつながっていた。

写真 ⑮  昭和5年(1930)頃の赤坂見附の桜並木

 写真は、現・都道府県会館前辺りから赤坂方面を見ている。写真右側に見附を構成していた土手が残っていて、現在と雰囲気が異なる。

 震災復興事業で、現・赤坂見附から弁慶橋にかけての道路形態が大きく変わったため、新たに74本のサクラが街路並木として植えられ、戦前は、エピソード4で紹介した桜並木と合わせて、三宅坂から赤坂見附間に185本のソメイヨシノの並木があった。ここも、明治のサクラと一体になっていた。

 なんと明るい景観だろうか。現在進められている日本橋の高速道路地下化のように、いつか青空がとりもどせると良いのだが。

写真 ⑯ 昭和1 3年(1938)頃、赤坂見附の桜林

 街路並木としてサクラが植えられるに合わせて、明治14年(1881)頃植えられたソメイヨシノも植え替えられている。わずか50年たらずであったが、新たなサクラで、歩道はサクラのトンネルとなった。そして、戦後、昭和39年(1964)のオリンピックに向けた高速道路の整備に伴い、堀端は樹木が育ちにくい環境となり、街路並木としての三宅坂からのサクラは全て撤去となり、新たにイチョウが植えられた。ここも40年遅れで、昭和の街路並木に変わったのだ。

写真 ⑰  昭和3年(1928)頃、一ツ橋から雉子橋遠望

 写真中央が大正14年(1925)11月に竣工した雉子橋、その右手にはプラタナス並木が神保町方面へと続いている。資料では、雉子橋から一ツ橋間で、吉野桜の並木138本とあるが、昭和7年(1932)作成された道路台帳図で植栽の数を調べると70本にも満たない。何を根拠に作成されたのか不明であるが、写真右側に写る植樹帯に植えられた樹木を道路台帳図で数えると33本ある。復興事業史に記録されたサクラの数と符合する。ただ、この植樹帯、戦後、この通りが復興のための公共の物揚場や材料置場として整備されたため、撤去となり、さらに高速道路で写真左側の外濠石垣上の樹木も無くなり、写真の面影は消えてしまった。

 資料に示す街路がどこか不明であるが、外濠石垣の上の樹木が桜樹で、右側もそうだとしたら、ここも外濠のサクラとして名所になるような堀端だったと想像できる。

 この外濠のサクラについても知っている方がいたら、是非、ご教授をお願いしたい。

5 昭和1 1年(1936)頃、桜の名所公園

表 ② 東京市内の公園の桜

 この資料は、前掲の資料の続きにあったもので、市内で100本以上の桜がある公園が紹介されている。上野恩寵公園は、千代田区エリアの公園と比べ、10倍以上の本数が植えられている。また、飛鳥山公園や隅田公園も数多くの桜が植えられている。江戸から続く桜の名所には、かなわないが、明治生まれの千代田区エリアの公園も紹介されている。ここでは、今まで紹介していない日比谷公園と麹町公園(現・日枝神社)のサクラを見てみたい。

写真 ⑱ 大正初年、日比谷公園の日比谷門

 明治36年(1903)に日本で初めて洋風公園として開園した日比谷公園。写真で見るように、現・日比谷門を入ると一面にサクラが植えられていた。現在は芝生広場となっているところが、運動場があり、その周りにもサクラが植えられていた。ここにも246本植えられた明治の桜林があった。

写真 ⑲ 大正初年、日比谷公園内の運動場

 写真は、現在の芝生公園の西側から南を見ている。かつて広い運動場あり、外周部は競争道として整備され、サクラも植えられていた。写真中央が現・市政会館にあたる。写真左側に、華族会館(旧・鹿鳴館)の大きな建物が見える。

絵図 ③ 明治30年(1897)頃の麹町公園(日枝神社)

 麹町公園は、明治14年6月、日枝神社の境内が公園として位置付けられたもので、昭和22年には解除となっている。絵図の左側の山王坂が、現在、国会議事堂裏から神社へいたる坂道となる。絵図には桜樹が、参道や境内だけでなく、外周道路にも植えられているのが分かる。溜池は、まだ埋め立てられていなく、橋でつながり、赤坂側の道路にも桜並木が植えられていた。

写真 ⑳ 山王の桜花

 前図の右側に描かれている蓮池から山王坂を見ている。明治30年(1897)発行の『東京名所図会 第九編』には、「桜林おうりん 桜は星岡の東麓とうろく、大鳥居ぎわより蓮池のほとりを、殊におびただしと為す。何れも近年うえみしものにて、花は単辨ひとえなるも、毎春爛漫らんまんとして、白雲徂徠そらいす。」とある。

 「星岡」とは、日枝神社本殿のある高台を指すもので、江戸期には植えられていなかったソメイヨシノが、明治20年代に大量に植えられてことが分かる。ここにも182本も植えられていた明治の桜林があった。

写真 ㉑ 大正初年、日枝神社境内のサクラ

 写真は、日枝神社の大鳥居からの階段を上り、楼門を入ったところ。ここも桜樹が列植されている。現在は拝殿へと直接行けるが、かつて、この先に神門があった。この楼門は、昭和20年(1945)5月25日、米軍の空襲で国宝の社殿もろとも全焼してしまう。桜樹も同様であった。社殿の再建は、昭和33年(1958)だった

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