近年、大地震の後の復興事業でサクラが植えられることを目にする。災害で亡くなった人を忘れず、次の命を育て、地域を活性化させるために植樹されたもので、「復興サクラ」と呼ばれている。
大正12年の関東大震災の後、靖国神社参道は、バラックで埋まっていた。そして、翌年の春、靖国神社の境内にサクラの花が一面に咲いた。この時の罹災者の記録を見たことはないが、毎年見慣れた風景であっても、震災から半年が過ぎ、バラック生活に希望や生きる力を与えたのだと思われる。
このサクラ、幕末から函館戦争にいたる時期、官軍側の戦死者をまつる地=招魂社(後の靖国神社)境内に、明治5年、本殿の竣工に合わせて植えられたもので、明治という時代の「復興サクラ」のようなものであった。そして、サクラは、周辺地域の九段坂、千鳥ヶ淵、赤坂見附、路面電車(現・246号線)や甲武鉄道(現・中央線)が走る線路端にも植えられ、まさに地域が「明治の桜」で埋まっていた。坂の上の旧武家地は、日本で初めてソメイヨシノの群落を見られる地域となった。そして、ソメイヨシノの桜林は、全国の小学校や鉄道施設などのインフラ整備とともに施設周辺に植樹され、サクラの代名詞となった。

写真①大正12年(1923)9月1日の関東大震災直後の靖国神社
震災で参道両側の六十基の石灯籠は全て倒壊したが、大村益次郎の銅像や大鳥居は立ち尽くしている。参道両側の銀杏並木は、大正8年(1919)頃に、「参詣者の気分を統一し、崇高の感を抱かしける」ために新たに植えられたもので、まだ若木である。
写真左側には、神社建物も破損したため、神社の仮設テントが張られ、右側には、すでに避難民のトタン張りバラックもできている。

写真②大正13年(1924)春 被災地の桜林=「復興サクラ」
東京市は、9月9日には、靖国神社境内に、バラックを建て始め、震災から1ヶ月も経たない、9月29日に、70棟488室の「九段バラック」を竣工させる。収容者は、資格制限を設けず、560世帯(内、麹町区237世帯、神田区201世帯)、2,649人にのぼった。
当時の罹災者は、生業を本業とする人たちが中心で、建物は店舗もかねている。このため、参道に面して、仲見世通りが誕生したかのような光景となった。第一鳥居前には、東京市による仮設浴場、救世軍による保育園もある、罹災者にとって、ここで生活が完結する新しい「仮設の町」が誕生したのである。
写真は震災から半年後に撮影されたもので、サクラは、維新後に新しく植えられた「明治の桜」で、神苑内はサクラの花であふれ、外苑周囲もバラックを取り巻くように一群の花を付けている。江戸後期に誕生したソメイヨシノは、クローンであるが故に、一斉に咲いて、散っていく。桜林がもたらす明るさと開放感は、江戸期にはなかった春という季節感を実感させてくれものだった。

写真③大正14年(1925)春の靖国神社
震災から1年半後の3月31日、バラック居住者は、境内相撲場で解散式を行い、仮設の町は解体撤去された。この頃の復興事業は、現在と比べ、実にテンポが早い。写真の社頭は、震災復興事業による九段坂改修工事で削られる前の姿である。第一鳥居前の大燈籠は修復され、右側の「明治の桜」は、まだ花を付けている。
九段坂を上り、青空に輝く一群のサクラは、罹災者だけでなく、ここを訪れる人にとって、新しい季節を告げる「復興サクラ」のような姿に見えたのだろう。この光景が、震災を経験した人々の記憶に残り、これが、戦後の復興事業にあって、坂の上にサクラを植える原動力になったのだと思わずにはいられない。
著者紹介
小藤田正夫(ことうだ まさお)
東都町造史研究所理事 著書に共著で『外濠』、『コンバージョン、SOHOによる地域形成』、『公民連携のまちづくり事例&解説』、『Thing Meiji』などがある。

