episode 2

九段坂上の桜林

 明治初頭に九段に桜樹を植えたのは、木戸孝允だった。彼は、天保4年(1833)生まれで、明治10年(1877)に43歳で没してしまう。明治期、彼の屋敷は、現・九段高校の所にあった。

 これについて、元長州藩後輩の妻・中島茂子が大正7年(1918)に残した談話がある。「今の靖国神社の境内にある桜樹のことであります。此の桜樹は公(木戸孝允)が染井(現・豊島区駒込)から移し植えさせられたのが最初と思います。染井には御承知の如く、昔から公の御別荘を始め、其の附近にも大小多くの桜樹がありまして、年々其の苗木が沢山にできます。公が染井から桜樹の苗木を靖国神社の境内へ植えさせられた時には、私にも手伝を御命じになったことを、今によく記憶しています。其の後に追々と他からも桜樹を植えまして、遂に今日の如く境内は桜林となりましたが、公の染井から栽えさせられたのが初めと存じますであります。」(『木戸松菊公逸話』有朋堂、1935)

 木戸は、桜樹を移植した理由を残してはいないが、染井には、江戸後期に園芸品種として開発されたソメイヨシノが大量に育てられていた。花付きもよく接ぎ木で成長も早く、形のそろったものを集めやすいことから、大量に移植されたのであろう。

 今回は、九段に日本で初めてソメイヨシノの群落が誕生し、明治後期には桜林となった経緯をたどってみよう。

1 幕末の九段坂上

 九段坂上の地域は、江戸城内堀と外堀に挟まれたエリアで、将軍の親衛隊というべき旗本が多く住む武家地であった。道路は、閉鎖的な長屋門や笠木塀が続き、九段坂上には馬場(流鏑馬の稽古場、幕末期は幕府の歩兵屯所)があり、軍事施設である堀の石垣や土手上には、松などの木々が植えられていても、堀の中や外側の堀端には、人が隠れられるような樹木を植えないのが基本であった。江戸は城郭都市だった。市中の町人地の河岸地や道路は、物流の拠点で、稼ぐ場所でもあり、樹木は植えられていなかった。明治になって、初めて、市中に街路並木が誕生するのである。

絵図① 安政4年(1857)10月28日の九段坂上

 図は、維新の10年前、現在の靖国神社の外苑を東側から見ている。『江戸名所図会』の著者の斎藤月岑が残したもので、「諸侯弓馬(流鏑馬)稽古場」を描いている。絵の左側の千鳥ヶ淵や道路・三番町通(現・靖国通り)には、樹木は植えられていない。通りの正面に富士山が見える、今と変わらない景観があった。

 馬に乗っているのが米国総領事館の通弁官・ヘンリー・ヒュースケンで、初代米国公使・タンゼント・ハリスの将軍・家定に謁見するため、下田から同道し、蕃書調所(現・昭和館)に安政4年10月14日から逗留していた。ヒュースケンの日記には、「宰相訪問と謁見で出かけただけで、まる一週間というもの外出しなかったので、大使は戸外で外気浴と乗馬のできる場所が欲しいと言い出した。馬一頭が方向を変えるくらいの・・・小さな囲いでは物足りなかったがようやく今日、生け垣や樹木で囲まれた、丘の上の広い一郭に案内された。ここからは美しい江戸の全景が眺められる。」(『ヒュースケン日本日記』岩波文庫1989)とある。

 そして、翌5年(1858)6月、日米修好通商条約が結ばれる。しかし、この条約は、外国人犯罪の裁判権、関税自主権なき不平等条約だった。この絵は、明治維新に至る時代の瞬間が描かれている。

 絵の奥の林には、神道無念流・斎藤弥九郎の剣術道場があり、桂小五郎(木戸孝允)は、ペリーが来航した嘉永6年(1853)には、練兵館塾頭となっていた。この道場には、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎など長州藩の者が多く通っていた。

 また、この絵の頃、靖国神社に銅像がある大村益次郎(村田蔵六)は、蕃書調所で蘭学の教授手伝をしていた。九段は、明治維新に関わる人達と縁のある場所だった。

2 明治生まれの神社と桜樹

明治2年(1869)5月18日、函館での戊辰戦争が終わると、同年6月13日には、大村益次郎たちにより、招魂社(明治12年、靖国神社に改称)建立の位置が九段坂上に決まり、6月27日には仮殿が旧馬場の中央付近(現・大村銅像の東側)に建てられる。そして、翌3年(1870)6月1日には、新本殿の地鎮祭が現在の場所で行われ、明治5年(1872)2月5日に上棟式、5月7日には竣工する。

神社の記録には、明治5年2月30日(新暦の4月7日)に「社頭の桜開花」(『新訂増補靖國神社略年表』)とある。この桜樹は、正殿工事に合わせて、木戸が植えたものだったのだろう。

 斎藤月岑の残した『武江年表』の明治5年5月の項には、「在来の馬場并に武家邸取払ひ、東西五丁余・南北一丁程の所をならし、奥の方東向本社を建、社頭に馬場を設けられ、東の方入口より左右に玻璃漏(はりろう)の燈籠を建列ね、境内桜樹多く植られたり。(明治)十年に至り、総構への石垣、并社の奥に林泉築山を築せられ、花木列(つらな)り立、処々に四阿(あずまや)の茶亭を設らる。近年の盛事にして、東京一の壮観なり」(『定本 武江年表 下』筑摩学芸文庫2004)と誌されている。明治5年の招魂社境内には、月岑の目にも桜樹が目立つほど多く植えられていた。そして、本殿の裏には、庭園がつくられ、花木が植えられて茶店もできた。

写真① 明治6年(1873)初冬の招魂社本殿

 写真の鳥居は、明治6年1月に建立されたもの。境内に植えられた桜樹は、木戸孝允が植えたものである。

 

写真② 明治6年(1873)頃の招魂社参道

 前の写真とは、逆に境内から東側参道を見ている。参道には、ガラスの入った燈籠が立ち並び、競馬場の柵が作られ、参道の入口には、明治4年(1871)に竣工した高燈籠が見える。写真右側の外構には、大きな桜樹が植えられているのが見える。

3 表参道としての九段坂、門前町としての富士見町の誕生

写真③ 明治5年(1872)頃の九段坂

 本殿建立に合わせて桜樹が植えられたのは、招魂社境内だけではなかった。明治5年には、写真のように九段坂の両側に大きな桜樹が植えられ、坂上には茶店もつくられていた。そして、桜樹の間には、雪見灯籠、石灯籠も据えられている。どうやら招魂社整備に伴い、旧武家屋敷にあったものを移設したようである。銀座煉瓦街の桜並木が明治6年末に日本で初めてできたと言われているが、この街路並木の方が実は早かった。

 この九段坂、現在は神田方面からの交通の要所であるが、江戸期は、下町、取りわけ筋違門から直にいたる道はなかった。武家方は大手門との関係が重要であり、町人地・元飯田町への物流は、日本橋から外堀を通り俎河岸へと運ばれ、人の流れも堀端を通るのが通常であった。また、九段坂は、元飯田町の間の中坂より幅が狭く、段差のある坂道で車は通れなかった。このため、江戸期、神田祭礼の山車行列も俎橋から中坂を上り、田安門へと入っていた。

 明治2年(1869)4月には、俎橋から東の方へ新道ができて、現・さくら通りにつながった。これにより、下町の交通要所である筋違門から直接、九段坂へと来られるようになった。そして、明治5年5月には、「筋違橋内、元おなり道より小川町・表裏神保小路、町屋と成」(『定本 武江年表 下』筑摩学芸文庫2004)、新たな商店ができ賑わう通りとなった。まさに、「下町から招魂社への道」=「靖国通り」の原形が誕生したのである。

 また、明治4年(1871)1月に九段坂は、北側へと拡幅され、段差も解消され、人力車も登れるようになった。そして、極めつけは、同年10月には、海からも目立つ高燈籠が坂上に誕生して、人々の目を九段坂上に引きつけ、更に人を集めるため、祭礼はもとより、花火をあげ、奉納競馬や相撲など、色々な催し物が開催された。九段坂は、招魂社への表参道と姿を変えた。

絵図② 明治4年(1871)頃の九段坂上

 図の真ん中に高燈籠(現在の位置とは異なる)、その右側の境内外構には、桜樹が植えられ、競馬場の奥に移築された仮殿が見える。左側の町屋は、明治3年(1870)に境内南側と道路を挟んだ旧武家地の北側に開発された両側町だった。ここは、飲食街用地として貸し出され、「富士見町」(現・九段南、北二丁目)と名付けられた。招魂社の維持費を捻出するため、東京府が土地や家屋を民間に貸した門前町だった。明治生まれの参詣地に人を集めるには、人が来る名目、通る道路、休む場所が必要である。江戸から続く「明治のまちづくり」がここにあった。

 明治3年10月20日、「招魂社、是迄仮殿にてありしを、あらたに御造営の事始りて、日々材木を曳く。飯田町・富士見町の者、おのづから浮かれたちて、オドリ・ネリモノ等を催して賑へり」(『武江年表』)とある。本殿の柱は木曽檜で、雉子橋門前の外堀に面した物揚場に着いた。ここから、地域をあげてのお祭り騒ぎの中、材木は九段坂を上ったであろう。

 そして、「明治5年11月、九段坂上田安御門外、御堀端、水茶や其外共、一同取払に成」(『武江年表』)。本殿の竣工にあわせ、坂上の町屋は整理され、道路の南側街区のみとなり、後に、これが発展して、九段富士見町の花街となっていった。

4 ソメイヨシノの群落=「桜林」誕生

 明治20年代半ば頃の「東京名勝花暦」見ると、靖国神社境内には庭園もあり、桜だけでなく、2月から6月にかけ、梅、柳、ツツジ、牡丹などが順次楽しめる百花園のような場所となっていたが、境内の空地を埋めるように植樹が行われた。

 それは、明治24年(1891)に「境内遊就館前その他へ、桜220本、楓20本」(『靖國神社神社誌』)が新たに植えられ、翌25年にも、「馬場の両側、牛ヶ淵付属地に吉野桜380本・山紅葉50本・樅(もみ)50本」(『新訂増補靖國神社略年表』)が植えられた。何と二年間で600本もの桜樹が九段坂地域に植えられ、これが、明治初頭の桜樹と一体になり、坂上に「桜林」が誕生することとなった。

写真④ 明治20年代後半の靖国神社

 参道両脇に桜樹が整然と植えられている。参道南側の大きな桜樹は、木戸が植えたもの。図②の木製鳥居は、明治17年(1884)に不朽したため撤去となり、写真の青銅の鳥居は、明治20年(1887)12月に建立された。写真には、現在ある拝殿(明治34年(1901)竣工)はまだなく、本殿が直接見えている。

 鳥居前の道路は、現・白百合学園前の通りから直につながり、靖国通りへ抜けていた。大正6年(1917)、神苑を広げるため、東側(現在の位置)に道路は付け替えられ、さらに、鳥居は、昭和9年(1934)に神門が新設されると、東側(現在の位置)に移設された。

5 初めて見るソメイヨシノの花見

写真⑤ 明治30年(1897)頃の靖国神社境内

 大量のソメイヨシノが植えられた明治30年頃の靖国神社境内での花見はどうだったのか。当時の記録を見てみよう。「神社の左右前後皆庭園にして、四時の観に富めり。先つ社前には、右路を挟みて、稚樹(わかき)の桜林を成し。其の南は悉く合抱(ごうほう)に餘れる大樹の桜なれは、春暖かに花咲ける頃は、雲かと疑ひ、霞かと訝るばかりにて、其の佳景いはむ方なし。若し夫れ東風狂し、落花散する時は、香雪繽粉(かうせつひんぷん)、庭園為めに白からむとす。紅裾翠袖互に其の間に戯るゝなど、興趣いふべからず。」(『新撰東京名所図会 第177号』東陽堂 1987)

 文中の稚樹とは明治24年(1891)に植樹された桜樹、南の大樹とは、木戸孝允が植えたものである。ソメイヨシノは、種から自然繁殖をしないクローンのため、環境が同じなら、葉が出る前に一斉に咲き、花吹雪のように一斉に散っていく。そこで赤や緑の服を着た人達が戯れている光景、今では、当たり前のソメイヨシノの花見の景であるが、この光景は、江戸期には見ることができなかった。花見の名所に植えられていたのは、個体差のあるヤマザクラや八重桜の群落だった。それは、長い時間、季節を楽しむという花見のスタイルであった。

 ソメイヨシノは、園芸品種として形のそろったものが大量に安く手に入ることから、日本中の近代化に伴う小学校や鉄道などのインフラ整備で使われていった。ソメイヨシノの群落が青空に咲き誇る光景の持つ明るさと開放感は、春が来たという季節感を日本の至るところで示すようになり、ソメイヨシノの開花予想日が、桜前線となった。

6 坂の上の桜林

写真⑥ 明治39年(1906)頃の九段公園

 明治39年、市区改正設計により三番町通り(現・靖国通り)は、27mに拡幅され、市ヶ谷見附から現・千鳥ヶ淵緑道を通り、半蔵門前に至る路面電車が開設された。この頃の神社外苑は、競馬場は明治34年(1901)には撤去となり、外苑を囲っていた土手も鎖柵となり、参道の両側にあった石灯籠も外構付近に移設され、大村の銅像だけが目立つ公園のような参道が誕生した。

 銅像の右側に田安門が見え、その右側に市ヶ谷方面から現・千鳥ヶ淵緑道へと出入りする路面電車も見える。九段坂から田安門前、三番町通り、靖国神社へと桜樹は続いている。

写真⑦ 明治39年(1906)頃の「明治のサクラ」

 この写真を見ると、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の冒頭の言葉、「誠に小さき国が開化期を迎えようとしている」を思い出す。私には「開化期」ではなく、「開花期」と聞こえていた。それは、「一朶の白い雲」を目指して坂をのぼった先に見えたものは、「青い天に輝く一群のサクラ=桜林」だったのではないか。幕末から内外の戦争を切り抜け、独立国家として面目を保ち、不平等条約を解消すべく近代化を進める日露戦争直後の日本の姿を象徴しているように思える。まさに明治という時代が生み育てた「明治のサクラ」が見えたのだと思う。

写真⑧ 明治42年(1909)頃の境内のサクラ

明治24年(1891)に植えられたソメイヨシノは、明治の終わり頃には、枝を横に、上へと伸ばし、参道を覆うほどに成長した。しかしながら、人の寿命ほどのソメイヨシノ、風などで折れたりして、枯れ、昭和に入ると、まばらな姿となっていった。

著者紹介

小藤田正夫(ことうだ まさお)

東都町造史研究所理事 著書に共著で『外濠』、『コンバージョン、SOHOによる地域形成』、『公民連携のまちづくり事例&解説』、『Thing Meiji』などがある。

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