episode 4

赤坂見附のサクラ

 現在、赤坂見附付近の桜というと、弁慶橋上から見える堀端のソメイヨシノと紀尾井町通りの八重桜であろう。これらのサクラは江戸期には植えられていなかった明治のサクラである。

 明治32年(1899)頃には、弁慶橋上からの眺めを、「橋上にて、四方を見渡せば、西に紀の国阪のしゅんはん、車馬行人絡繹らくえきたるを望み、東に北白川、閑院両宮の高閣屹立きつりつし、塘堤とうていの老松亭々として雲際うんさいそびえ、南は近衛三聯隊兵営より星ヶ岡公園を見晴し、ことさらはなどき、赤坂門外並に清水谷の桜花爛漫たるの頃、此橋上を過れば、宛然さながら図画中に入るの観ありて、光景言はむかたなし」(『新撰東京名所図会』1899 東陽堂)とある。

 今回は、この景観がどんな流れで誕生したのか、追い掛けてみよう。

1 赤坂門前のサクラ

 江戸期の江戸城堀端には、樹木を植えないのが基本であった。明治14年(1881)頃、赤坂門へ登る坂の両側の堀端にソメイヨシノが植えられ、地域の景観を一変させる桜並木が誕生した。

写真① 幕末期、赤坂門から見た弁慶堀

 写真は、幕末期の弁慶堀である。現在の弁慶橋は、写真右手、柵前の堤塘を削り、写真左手、堀端の大木のある建物の場所に向けて、明治22年(1889)に新たに架けられた。この建物、玉川稲荷社で、大木は、神木の銀杏だった。この建物から堀に沿って、柵が作られている。その堀側に玉川上水の開渠があり、稲荷の名は、この上水で御神体が流れ着いたことから名付けられた。稲荷社は、弁慶橋の新設工事にともない、明治21年(1888)12月、氷川神社境内へ遷座し、後に、勝海舟命名の「四合稲荷社」に合祀されている。

 稲荷社の手前の堀の切り込み部は、溜池へと水を流す暗渠があった。その手前の建物は、赤坂門の番所である。そして、さらに手前の小土手の上に、明治14年(1881)頃、詳細は不明だが、英国公使館前の桜樹植栽と軌を一にするかのようにソメイヨシノが植えられた。

写真② 明治30年(1897)代後半の弁慶堀

 明治4年(1871)5月には、赤坂門の渡櫓門は撤去、翌5年11月には高麗門も撤去となり、その後、門前の坂に植えられたソメイヨシノが、明治30年(1897)代後半になると、写真のように大きく成長し、さらに外堀通り沿いにも植栽され、弁慶橋上からは絵に描いたような世界が眺められた。これも旧江戸城の堀端に誕生した「明治の桜林」である。

2 清水谷の八重桜

 清水谷(現・紀尾井町通り)は、大久保利通(1830-1878)が、明治11年(1878)5月14日朝、石川県士族6名で襲撃され、暗殺されるような寂しい場所だった。その10年後、明治21年(1888)3月に、これを払拭するかのように、「大久保利通哀悼碑」が有志者の手で建設され、さらに、これを記念して、清水谷の道路両側に100本余の八重桜が植えられた。

 そして、翌22年(1889)2月には、弁慶橋が現在の場所に新設され、赤坂地域から清水谷への交通の便は格段に良くなり、同23年(1890)3月には、哀悼碑を中心にして清水谷公園が開園され、通りは人々が集まる名所となった。

絵図① 明治16年(1883)測量による清水谷及び周辺図

 地図をよく見ると、赤坂門前の坂道両側に樹木が10本ずつ植えられているのが分かる。

 現・紀尾井町通りが「清水谷」と呼ばれたのは、図に見るように、本来、喰違見附からの紀尾井坂と麹町からの清水谷坂の沢筋が、弁慶堀で四谷方面からの沢筋と合流し、溜池方面へと水を流す谷筋だったからである。この流れを、弁慶堀際に堤塘をつくり塞いだため、清水谷はスリバチ状の地形となった。また、名前の通り、この付近の崖地からは、清水=湧き水が出ていたことも分かる。谷の右側には、湧き水などを溜める池があり、道路の両側には、湧き水や雨水を堀へ流すための水路があった。地図には、清水谷の北側の池の場所に、歯車のような印がある。地図の凡例によると「水車房=水車小屋」の印で、ここの湧き水は、水車を廻せる程の水量があったようである。

 絵図の青色★印は、大久保利通が享年49で暗殺された「紀尾井坂の変」の場所である。大久保は、青線の道を通って、霞ヶ関の自宅から太政官と記された仮皇居へ出仕するため、二頭立ての馬車で、曲がりくねった永田町の尾根道から赤坂門に至り、堀端を下り、清水谷(現・紀尾井町通り)から紀尾井坂へと向かう途中で襲撃された。このルートを通ったのは、現・外堀通りに玉川上水の開渠水路があって通れないため、紀の国坂を通ると遠回りになるためだった。

 絵図の赤色+印は、現在、大久利通哀悼碑のある場所(現・清水谷公園)を示す。

 絵図の水色★印は、岩倉具視(1825-1883)が、明治7年(1874)1月14日夜、赤坂の仮皇居から現・皇居外苑の自宅へ帰るところで、高知県士族9名に襲撃された場所である。彼は刺客に斬られた時、喰違の土手から四谷堀(現・真田濠)に落ちて逃げ、一命を取りとめた。

絵図② 明治23年(1890)に開園した清水谷公園

 内務卿・大久保利通暗殺から10年後、明治21年(1888)3月に現場近くに哀悼碑が建設される。この事業の中心となったのが、大久保と親交の深かった内務官僚・西村捨三(1843―1908)であった。彼は、建設の経緯を次のように述べている。

 「清水谷の大久保公哀悼碑建立の挙に関したり、元松方(正義)伯か、何かいんめいの場所へ、紀念物を創立せんとの意ありし故、予其労を取り、斡旋して敷地二千坪は、北白川宮の御寄付を願ひ、岩崎家より数千円の寄付あり、各地方官も縁故ある人は百円つゝ寄付され、碑石は仙台石を引きほうを作り、碑面は三條(実美)公の染筆せんぴつ、―――庭園をしつらへ、殊に碑畔の松林は、公か王子西ヶ原の農事試験所に下種せられたるわかまつを用ひたりしに、今や目通り三尺内外の樹木となれり、―――紀尾井町の道傍には、桜樹を植付け、赤坂より通する堀に擬宝珠付の橋を架せられ、内外の桜樹を植付けられ、五六万円の金を掛け、一場の勝地と化し去り、公が殞命当時、寂寞せきばくたる境とは覚へすなりぬ、終に東京市の公園に引継き保存の道も十分になり、喜ふへきことなり」(『御祭草紙』1908  内山鷹二)

 絵に見るように、碑の近くまで人が入れるようになっていて、碑の周りには、大久保ゆかりの松が植えられている。さらに開園から10年後には、碑の「後は丘陵を控へて、躑躅つつじ花、之をおおひ。園内に桜樹夥多しく植ゆ。されど皆、八重桜なるを以て四月下旬より遅きときは五月に到り。躑躅と共に開くことあり。満地まんち錦を織るか如く。日々ゆうかんする者絶ゆることなし。」(『風俗画報』  1900年4月 東陽堂) さらに、公園内の池の側には、「かいこう苑」という貸席の茶店があり、「琴棋きんき書画しょがの会」、「清元、常磐津等のさらい」など、色々な催し物で人が集まる場所として使われていた。 

写真③ 大正期の清水谷(現・紀尾井町通り)

 写真は、今から百余年前の紀尾井町通りである。弁慶橋を渡った所から紀尾井坂方面をみている。大久保利通が襲撃された場所は、緩やかな下り坂から途中登り坂に転じている辺りである。谷の水は、写真左側の泥溜枡に集められ、弁慶堀へ流れる仕掛けになっていた。

 写真のように清水谷の「路傍両側は桜樹を列植せり、此の桜樹は贈右大臣大久保利通公哀悼碑建設に際し、紀念の為め有志者の植付たるものにして、小町、楊貴妃等の八重桜なれば、晩春開花の頃は市民の来りて賞観する者多く頗る殷賑いんしんなり」(『新撰東京名所図会』1899東陽堂)とある。紀尾井町通りの八重桜の由来が、ここにも記されている。

 大久保利通を偲ぶために、公園内だけでなく、清水谷も、すべて八重桜が植えられた。しかも多様な種類が植えられていたようで、ソメイヨシノのように一度に咲き散ることはなかった。このこだわりは、大久保の命日が5月14日ということで、あえて遅咲きの八重桜を選んだのであろう。

写真④ 明治22年(1889)に開通した弁慶橋

 八重桜が植えられた翌明治22年(1889)2月に弁慶橋が堤塘を切り崩し、堀内に新たに長さ28間(50.4m)・幅員4間(7.2m)の木橋が架設された。ちなみに、現在の橋は、昭和60年(1985)に架け替えられた幅員22.0mのコンクリート橋である。写真は竣工から10年くらい後のもの。橋の奥にあった堤塘が6m近く削られたため、続く右側の堤塘も斜めに大きく切り取られている。弁慶橋の誕生により、スリバチ状の窪地は元地形である沢筋にもどされ、初めて堀の内と外とがつながることとなった。

 「弁慶橋」の名は、江戸期から現・桜田濠が「外桜田弁慶堀」と称されたことに対し、「赤坂弁慶堀」と呼ばれたことによる。明治初期に架け替えられた石橋や近代的な鉄橋と比べ、昔ながらの反りのある木橋で、橋の床板は板張りである。橋の擬宝珠は、筋違橋、浅草橋、神田橋、一ツ橋などのものが使われ、江戸木橋の記念碑のようなものとなっていた。

3 三宅坂下から赤坂門までの桜並木の誕生

 現在の青山通り・国道246号線は、明治天皇が青山練兵場での観兵式に行幸するのに、曲がりくねった道を通らなければならず、不便だというので計画された。ただ、新たに用地買収で多額の経費がかかるため、日清戦争の後、明治27年(1894)2月、明治の都市計画ともいえる市区改正委員会で決定され、明治30年(1897)代初めに幅員15間(約22m)の幹線道路として整備された。

EPSON MFP image

絵図③ 明治27年(1894)に市区改正委員会へ提出された道路新設計画図

 図の赤色に着色した部分が、買収等による新たな道路用地である。赤坂門は、高麗門の石垣とその続きの石垣のみが現存している。この新設工事で街路並木として植えられたのは、ソメイヨシノだった。これで、三宅坂下から赤坂門、外堀通りへとつながる桜並木が誕生することとなった。

 明治37年(1904)9月には、路面電車が三宅坂下から青山四丁目(現・外苑前駅付近)まで開通し、さらに明治40年(1907)7月には、須田町から九段坂を上り、半蔵門を経て赤坂見附から青山七丁目(現・国連大学前)まで結ばれた。

写真⑤ 現・全国町村会館前辺りから三宅坂下を見る

 ソメイヨシノの枝は、横へと伸びて下がる。バスなどの大型車両が通らない時代、路面電車が道路の中心を走る時代は、枝が折られることはなかった。

写真⑥ 現・都道府県会館前辺りから赤坂門を見る

 大正初期の風景で、ここも「坂の上の桜林」となっていた。

写真⑦ 路面電車が交差する明治40年(1907)代の赤坂門下

 写真左上の建物が、北白川宮邸(現・東京ガーデンテラス紀尾井町)、赤坂門前の道路は広げられたため、溜池側の桜樹は植え替えられた。電車の曲がった先には、「赤坂見附」という停留所があり、電車前で交差する線路は、明治38年(1905)9月、葵橋(現・特許庁前交差点)―四谷見附間(現・JR四ツ谷駅)で開通した外濠線のもの。

4 花見のできる路面電車

 明治の終わり頃、文明の開化期をむかえた東京を象徴するものとして、路面電車があった。早朝から夜遅くまで、市区改正などで拡幅された道路を路面電車が走っていた。そこから見る風景は、「半日の閑も得ることの出来ない人にとっては、電車八景は用達しついでの慰藉いしゃである。」と、若月紫蘭(メーテルリンクの『青い鳥』の翻訳者)は、書いている。その「電車八景」の一つ目は、「赤坂見附の桜」であった。

 「三宅坂の勾配を上り切ってしまうと、眼前十歩に見下す花のトンネル! 数十の老桜は路の左右から差しのべた腕と腕とをつなぎ合って、香り芳しく立ち迷う紫のもやの中から、まだ色せもえぬ無限の花びらを惜しげもなくパラパラと投げ下ろす。落つるを遅れた花びらのヒラリヒラリと電車の窓にさ迷い込んで、落つるともなく更に一たび室内に舞うて、やがてヒラヒラッと翻って美人ならぬ車掌のがまぐちの中に隠れてゆくも風情なりや。更に仰げば一つ木通りの花のトンネルがあり、右手めてには時期少しく遅るれど清水谷の桜のトンネルがある。吉野嵐山の花に縁なき自分等に対しては、これはこれはと驚くまでならずとも、何とはなしに春に接した心地がするのである。

 舞ふ花の行衞見て居る車掌哉」  (「東京電車八景」『東京年中行事』1911 若月紫蘭)

写真⑧ 明治末期、春の「赤坂見附」停留所

 写真手前の溜池は、明治21年(1888)12月には埋め立てられ、弁慶堀からの水を流す一筋の開渠となっていた。写真左上の大きな建物は、赤坂小学校である。その崖地下の威徳寺いとくじ辺の桜も、写真右下の桜樹に呼応するかのように花を咲かせている。文中の「一つ木通りの花のトンネル」であろう。写真には、外濠線の電車が交差しているが、三宅坂下からの電車は、この交差点の停留所から大きく右に曲がって、青山通りへと進んで行った。

 現在の地下鉄では、手元のスマホを見るしか能はないが、明治の終わり頃、路面電車では花見ができた。司馬遼太郎が語る「まことに小さな国の開化期」とは、「明治のサクラ」の開花期でもあった。近代化された忙しい時代となっても、春を身近に感じられる生活があった。

著者紹介

小藤田正夫(ことうだ まさお)

東都町造史研究所理事 著書に共著で『外濠』、『コンバージョン、SOHOによる地域形成』、『公民連携のまちづくり事例&解説』、『Thing Meiji』などがある。

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