現在、「千鳥ヶ淵」というと、高速道路が入り込んだ田安門前から代官町の土橋までを指していて、土橋から半蔵門までは「半蔵濠」と称している。そのため、半蔵濠に面した公園が「千鳥ヶ淵公園」と呼ばれることに違和感を抱く人もいると思う。しかしながら、これは、明治34年(1901)に代官町通りから土橋がつくられ、堀が分割されるまでは、半蔵濠も含めて「千鳥ヶ淵」と称されていたことによる。
この土橋から半蔵濠を見ると、堀の中に樹木はなく、石垣の上に松などが植えられて、江戸期の堀の姿を見ることができる。しかしながら、堀端から英国大使館までの間は桜樹を中心に樹木が植えられている。これは、江戸期には無かったもので、堀の法面と同様に、堀端も人が隠れられるような樹木は植えていなかった。堀端は、幅50m超の何もない広道だった。
明治になり、この堀端の広道に桜並木をつくったのは、英国公使館であり、幕末から明治維新期に活躍した英国外交官のアーネスト・サトウであった。この坂上に誕生した「桜林=明治のサクラ」の流れを追ってみよう。
1 堀端の英国公使館と桜林


写真① 明治7年(1874)頃の英国公使館
写真は、明治7年12月に竣工した頃のもので、三つの大名屋敷や旗本屋敷跡を使い1万2千坪余の広さがある公使館だった。余りにも巨大な正門が特徴的である。
公使館前には、幅50mを超える広道が、半蔵門から緩やかな下り坂で、現・墓苑入口交差点まで続いていた。公使館は、奥行きが100m余であるが、長さは、320m余もある長大な敷地のため、道路と段差が生じている。明治になると、この広道に約10間幅(18m)の道路が整備され、残りは空地となっていた。
写真② 明治14年(1881)頃の英国公使館
写真は、半蔵門を入ったところから撮影したもので、堀端には整然と桜樹が移植され、公使館前の緑地周りには、低木が植えられている。移植して間もないせいか、公使館内には桜が咲いているが、まだ開花していない。江戸期には見ることができなかった堀端の景観がここに誕生した。そして、写真左側には、20mを超えるような巨大な国旗掲揚塔が建っている。これは明治初年の駐日公使館の光景でもある。

写真③ 明治20年代の堀端
この写真は、少し年が経った時のもので、公使館内の桜と一緒に堀端の桜も咲いている。この桜樹は、ソメイヨシノで、開花の遅い八重桜などの桜樹も混植されていたのであろう。写真②にあった巨大な国旗掲揚塔がなくなっている。

絵図① 明治16年(1883)に測量された千鳥ヶ淵
現・内堀通りの墓苑入口交差点から英国公使館前の堀端に、3列、4列で整然と197本の樹木が植えられている。青線は、写真②の撮影範囲、緑線は写真③の撮影範囲を推測してみた。二つとも、土手上の鉢巻(石垣)の角から撮影されているのが分かる。
写真②に見るように、公使館前の緑地内には、何も植えられていなかった。また、公使館の先、現・墓苑入口交差点の緑地には、桜樹は植えられていなかったようで、まだ、桜並木となっていなかった。
この桜樹を植え、東京府に寄贈したのは、アーネスト・サトウという話もあるが、明治14年(1881)の頃、彼は公使館の書記官で、植樹の助言や交渉はできても、まだ、公使館を代表する立場になかった。この時、駐日英国公使のパークスが賜暇(しか)帰国中だったため、代理公使のケネディーがその任に当たっていた。
ちなみに、この地図は、参謀本部が作成しただけあって、市街戦を想定してつくられている。麹町大通りから半蔵門に入り、代官町へ抜ける道に水色の破線が引かれている。これは、玉川上水の管路の位置を示している。また宅地内には井戸の位置も描かれている。
地図右下に「代官町」と書かれた場所から、半蔵門に向かって道が続いている。土手に上れば、堀越しに公使館も見ることができた。明治34年(1901)3月、代官町から直に内堀通りへと土橋がつくられ、半蔵門につながる道は、塀で閉鎖され、現在にいたっている。
江戸期、竹橋門を経て、代官町から半蔵門へ抜け麹町にいたる、この緩やかな坂道は、下町と山の手を結ぶ物流の幹線であった。また、江戸期、山王(現・日枝神社)祭礼の山車行列は、半蔵門から、この道を通り、乾門の所にあった将軍の上欄所を経て、下町へ至るのが道筋だった。
2 公使館前の桜並木の誕生

(『図説アーネスト・サトウ』2001 横浜開港資料室)
写真④ 明治2年(1869)、26歳のアーネスト・サトウ
アーネスト・サトウは、英国の外交官。文久2年(1862)に公使館の通訳生として生麦事件の直前に来日し、薩英戦争、下関戦争の講話交渉などに関わる中、日本語に堪能な通訳官として活躍した。彼は、「薩道愛之助」と名乗り、日本各地を旅行すると共に、日本について研究者として、膨大な書籍類を収集し、英国の日本学の基礎をつくった。有名な資料として、写楽の素性が記述された『増補浮世絵類考』(1884年、斎藤月岑編著)がケンブリッジ大学にある。

写真⑤ 富士見町のサトウの内妻・高田兼と次男・久吉
サトウは、生涯独身であったが、日本人の内妻がいた。写真の女性が、武田兼(カネ, 1853-1932)で、明治4年(1871)にサトウの内妻となった。彼女は、英国公使館に出入りしていた植木職人の娘だったという話がある。当時、武田兼の住居は牛込門内(現・日本歯科大学)にあったが、明治17年(1884)に富士見町(現・法政大学80年館)に敷地500坪ほどの旧旗本屋敷を購入し、ここで子供達と生活するようになった。この家は昭和50年代まで現存していた。左の男性は、サトウの次男、武田久吉(1883-1972、富士見小卒)である。彼は、大正2年(1913)英国に留学し、王立キュー植物園で研究を始め、京都大学などで講師を務めた植物学者である。また、登山家でもあり、明治38年(1963)には日本山岳会を創立し、尾瀬の保護活動などで有名である。写真手前には植物が並んでいる。これは、彼が収集した高山植物で、庭には二千鉢もあったという。昭和44年(1969)、千鳥ヶ淵に面した石垣にヒカリゴケが発見された時、生育調査を行い、学術的に位置付け、同47年には、国指定天然記念物となっている。
サトウは、仕事場であった公使館と家族の住んでいた牛込、富士見町との間を往復したのであろう。その間には、九段坂や靖国神社の桜林があった。彼は、旧知の木戸孝允が植えたソメイヨシノの群落を見ていた。残念ながら、この記録はないが、公使へ館内だけでなく、堀端にソメイヨシノを植えることを進言していたことが推測できる。


写真⑥ 明治33年(1900)頃の英国公使館正門
アーネスト・サトウは、明治28年(1895)5月に駐日英国全権公使に任命される。そして、明治31年(1898)3月に、高木のなかった公使館前の緑地に桜を、自ら選定、植樹して東京府へ寄贈する。これで公使館前の内堀通りは、堀端の「桜林」と一体になり桜並木となった。これも「坂の上の明治のサクラ」である。写真は、植樹直後の写真である。明治5年(1872)、九段坂に植樹された桜樹と同様にかなり大きなものが植えられているのが分かる。
写真⑦ 大正3年(1914)頃の英国大使館前の桜並木
アーネスト・サトウが植樹してから16年位たったころの英国大使館前(明治38年(1905)に大使館に昇格)の写真である。内堀通りは、路面電車の軌道を挟むように、桜並木が続いていた。
3 桜並木と路面電車

絵図② 明治44年(1911)、内堀沿いを走る路面電車
明治の都市計画というべき、市区改正事業で、現・靖国通りが幅12間(約22m)に拡幅整備され、明治30年代末には、路面電車が万世橋から九段下まで来るようになったが、急な九段坂を路面電車が登れないため、堀側に緩やかな専用軌道をつくり、同40年(1907)7月に坂上とつながった。これにより、路面電車は、須田町から神保町をへて、九段坂上、現・千鳥ヶ淵緑道から英国大使館前、半蔵門を超えて、三宅坂から赤坂見附、青山に至る路線が整備された。


写真⑧ 大正8年(1919)頃、現・千鳥ヶ淵公園交差点から半蔵門方面
写真右側の大使館側の桜樹が堀端と比べ、大きく育っている。写真左手は代官町からの新道で桜樹は撤去されているが、手前には堀端沿いに現・墓苑入口まで桜樹が植えられていた。ここが四辻の交差点(現・千鳥ヶ淵交差点)となるのは、関東大震災後の復興事業による。
写真⑨ 大正8年(1919)頃の桜並木
堀端の桜樹の間を小径が続いている。公園というより桜林のようだ。この桜林は昭和37年(1962)頃、首都高速道路工事のため、公園が開削され、全て撤去となった。

写真⑩ 大正8年(1919)頃の英国大使館前
アーネスト・サトウが公使館前に桜を植えてから18年後の大正5年(1916)8月の早朝、大使館前を、半蔵門から九段坂を経て、神保町へと向かう路面電車の中に20歳の青年・宮沢賢治がいた。彼は、中猿楽町(現・神保町二丁目)にあった東京独逸学院の独逸語夏期講習会に参加するため上京し、麹町三丁目に寄宿していた。
「大使館、低き煉瓦の、塀に降る、並木桜の朝の病葉(わくらば)。」(『新修宮沢賢治全集 第1巻』1980 筑摩書房) これは、その時、つくられた歌である。「病葉」とは、夏、病気や虫食いで赤く変色した葉のこと。空を覆うような桜の青葉の下に彼はいた。

写真⑪ 昭和6年(1931)頃の英国大使館前の桜並木
賢治の見た大使館の煉瓦塀や建物は、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊してしまい、現在あるのは、昭和4年(1929)に竣工したもの。写真は、写真⑨とほぼ同じ位置から撮影されているが、震災復興事業で内堀通りが改修整備されているのが分かる。大使館前の桜樹はすでに最盛期をむかえている。
この写真の脚注には、「これは麹町五番町の濠端に沿うた電車道で、両側に桜の老樹を並べ、花の盛りには頗る見事である。西側に英国大使館のあるところから、英国大使館前の桜ともよばれ、花の名所の一つに数へられる。一方は濠を見おろし景色がよいので、夏の夕方など涼みの人が多い。」とある。名所となった「明治のサクラ」だが、この後、戦災で大使館は残ったが、多くが焼失、枯死してしまう。
著者紹介
小藤田正夫(ことうだ まさお)
東都町造史研究所理事 著書に共著で『外濠』、『コンバージョン、SOHOによる地域形成』、『公民連携のまちづくり事例&解説』、『Thing Meiji』などがある。

