episode 5

外濠のサクラ

 「外濠のサクラ」というと、飯田橋駅のある牛込見附から四ッ谷駅間の千代田区側の外濠土手上のサクラ、そして真田濠の土手上のサクラを思い出すだろう。また、中央線の車窓から見える新宿区側の外濠法面に続くサクラも思い浮かぶであろう。

 しかしながら、江戸期には、土手や石垣上の老松や柳などの他には、堀の法面にも堀端にも樹木は植えられていなかった。明治27年(1894)に甲武鉄道(現・中央線)が、新宿から飯田町停車場間が開通したとき、線路端には数百本のサクラが植えられた。鉄道建設という、まことに小さな国の開化期の頃、ここにも桜林の開花期があった。今回は、今は見ることのできない「外濠のサクラ」を追いかけてみよう。

1 市街線、線路端の桜並木

 明治維新による文明開化の象徴として、鉄道建設は、全てが国有鉄道でなされたものではなかった。明治22年(1889)には、甲武鉄道が、新宿から八王子間を開通させ、明治26年(1893)には、新宿から飯田町まで鉄道建設が始まる。この鉄道路線、旧江戸城外堀内の旧市街地へ入る鉄道として、「市街線」と名付けられた。

 明治27年(1894)、折しも日清戦争(明治27年7月25日~28年4月17日)が始まる時、青山練兵場に仮設の停車場がつくられ、軍隊の輸送が新宿から品川経由で行われた。

 これが、一段落した後、明治27年10月9日、新宿・牛込間の営業が開始され、「之レガ紀念トシテ、無数の躑躅つつじヲ四谷及牛込停車場ニ植へ、線路ニハ又、数百株の桜樹ヲ植付ケ、風致頗ルきくベキアリ」(『甲武鉄道市街線紀要』1896年 菅原恒覧)となった。外濠土手上の老松に対し、水面近くの堀端には「明治の桜林」が誕生したのだ。

写真① 明治40年(1907)頃の御所ずいどう

 線路の両側には桜樹が植えられている。写真真ん中のトンネルは、旧赤坂仮皇居前下を通ることから「御所トンネル」と呼ばれたもので、130年余前につくられたトンネルが、現在もJR総武線下り線、四ッ谷―信濃町駅間で使われている。写真のプラットホームは、新宿方面へのもので、トンネル寄りにつくられていた。このため、明治34年(1901)には、御所トンネル脇に階段でおりられる改札口が設けられた。

写真② 明治30年(1897)代の四谷停車場

 四谷濠を分断するように鉄道が外濠に入ってきて、線路端の両側には桜樹が植えられている。明治28年(1895)3月には、甲武鉄道の四谷停車場が誕生し、4月には、飯田町-八王子間が全通となった。

写真③ 明治40年(1907)頃の四谷停車場

 市街線の名のように江戸城内に入るにあたり、既存道路と立体交差にする必要があり、写真のように外濠内側の見附石垣下と下流の濠への水落路との間を開削し、トンネル状にして立体交差とするためだった。そして、停車場位置は見附と水面との高低差の少ない西側につくられていった。写真のトンネルは「四谷隧道」で、壁面上部の兜(かぶと)の飾りから「カブトトンネル」とも呼ばれた。写真には、埋立られた堀端には桜が植えられ、土手の法面には、ツツジのようなものが植えられているのが見える。

 麹町側から停車場への出入口をつくるには、老松の茂る土手を切り開く必要があり、外濠の風景を大きく変えることから市区改正委員会で議論となっていた。このため、トンネル横の土橋法面に出入りの通路をつくったが、いかにも急な階段となってしまった。一方、四谷側からの停車場への出入りは、写真左から土橋に沿って濠を埋めて新設された緩やかな通路で、桜並木も植えられていた。

写真④ 明治28年(1895)頃、四谷見附土橋から三番町隧道をみる

 写真のトンネルは、復々線化に伴い撤去され、現存していない。当時、トンネルの上は、見晴らしの良い場所となっていた。新設された線路端や堀端に桜樹が植えられているのが分かる。法面は、江戸からの何もない草地であるが、現在は、堤塘上の松から落ちたマツボックリで一面に松林となっている。

写真⑤ 新設された線路端から三番町隧道を望む

 現在は、松林となっている土手だが、かつては、草地で、急な法面を降りて線路端まで行くことができた。隠れた花見の場所である。左端に陸軍士官学校(現・防衛省)が見える。

写真⑥ 大正10年(1921)頃、市ヶ谷見附から新見附方面をみる

 かつて、数百株の桜樹が、御所トンネルから牛込見附までの線路端に、写真のように桜並木として植えられていた。昭和3年(1928)11月、牛込駅が廃止され、現在の飯田町駅が開業するが、この時の復々線工事でこの桜並木はなくなった。

 写真には、新見附が新設されている。これは、鉄道工事で発生する不用土などを用いて築設しようというもので、四番町や市ヶ谷田町の人たちから、自費工事で新設したいとの要望で、明治26年(1893)9月に市区改正委員会へ提出され許可となり、鉄道工事に合わせて竣工したものだった。

 写真左上の大きな建物は、大正10年4月竣工した法政大学旧第一校舎で、震災では残ったものの戦災で焼失してしまう。

写真⑦ 明治27年(1894)に開設された牛込停車場の改札口

 外濠の土手を切り開いてつくられた富士見町側の改札口。ここから渡橋でホームへ降りた。改札口は、外濠を意識したデザインでつくられていたが、昭和3年(1928)、現・飯田橋駅が開設され撤去となった。現在もJR用地で、処方箋薬局などで使われているが、ここは、「史跡 江戸城外堀跡」の指定区域、歴史的資産の有効活用を御願いしたい場所である。

写真⑧ 明治40年(1907)代の牛込見附

 写真左側が現在のJR飯田橋駅となるが、牛込停車場は、昭和3年(1928)11月に廃止されるまで写真右側にあった。写真左側の神楽坂方面から土橋にそって通路が新設され、桜並木も植えられていた。停車場本屋は、石垣下の木橋を渡った先にあった。

2 四谷停車場の桜植樹紀念碑

写真⑨ 明治33年(1900)に建立された紀念碑

 JR四ッ谷駅改札から四ッ谷口側、南北線の連絡路の先の「四谷見附北」交差点へ出る右手に「四谷停車場桜樹紀念碑」といわれる碑が建っている。そこには、

「この四ッ谷見附けといふ所の風景を添へんとして、桜樹など植わたしたるは、明治廿九年の催しにて、盡力したる人はあまたなり、中にも殊に励みしは、大枝市右衛門、相沢三郎兵衛、杉山源右衛門の三氏なりしよし、今その紀念の為め、いしふみをつくり、是に歌をとありけるによりよめる。

   たれもみな このこゝろにて こゝかしこ

      にしきをそへて さかえさせはや

   明治三十三年五月 正三位勲二等子爵 福羽美静」と刻まれている。

 この碑について調べると、四谷「見附の外は土橋にして、道路左右、凡て一間毎に街燈を建つ数十基。皆四谷区内有志者の寄付なり。是より停車場前及び濠端に至るまで桜樹を栽う、林間に碑あり。」「碑の高さ三尺計、周囲に鉄柵を設けたり、土手際にして停車場の入口なり。」(『東京名所図会 四谷区之部 上』1903 東陽堂)とあった。

 明治28年(1895)には、飯田町-八王子間が全通して、その翌年に、停車場前の四谷区側の有志者の寄付により、四谷区側の見附の土橋や濠端に街灯や桜樹を植えた紀念碑ということになる。

 紀念碑には、樹木植附有志者8名の名前と石工の名前も記録され、その立派さから考えると、桜の植樹などに多額の経費がかけられたことが想像できるが、この紀念碑のみでは、残念ながら具体的に何がなされたのか知ることはできない。

絵図① 明治36年(1903)頃の四谷見附

 「東京名所図会」には、前述の説明書きを補足する絵図があった。右側土橋上には、桜樹植えられ、間に街灯が建てられ、四谷区側の濠端にも続いているのが分かる。これらが、碑文の紀念すべき催しの内容だった。 

写真⑩ 明治40年(1907)頃の現・四谷見附交差点

 濠の中につくられた停車場本屋と周囲との関係が良く分かる写真である。堀端に植樹された桜や街灯らしきものも写っている。また、停車場への通路には桜並木も植えられている。

 電車の交差している場所から、大正2年(1913)9月、濠の中へ新たに土橋がつくられ、写真右手奥の土手を切り開き、四谷見附橋が新たに架けられることとなる。

 外濠は、城の内と外とを分けるものだった。しかし、その濠の中に停車場がつくられ、出入口は見附の外側にあたる四谷側へと開かれていた。これを見た四谷側の人たちは、濠は地域を分断するものでなく、停車場を通して、離れた地域とつながるという新鮮な感動をもたらしたのではないか。「四谷伝馬町」の新たな姿が見えたのではないか。そして、四谷側の旦那衆は、江戸期、樹木を植えることのなかった濠内の線路端の桜並木を見て、同じように堀端を桜並木で飾ったのではないか、そして更に夜間の安全のため街灯も建てたのではないかと、そんな想像ができる。ここにも地域の人たちによって育くまれた「明治の桜林」が、まちづくりとして、かつてあったと思わずにはいられない。 

写真⑪ 大正2年(1913)9月、竣工した四谷見附橋

 四谷見附橋が、線路を跨ぐように新たに架けられ、四谷側から橋を受ける土橋が濠の中につくられ、土橋上には桜も植えられている。写真左側、四谷側からの通路の桜並木が残っているが、これも復々線工事に伴う駅舎工事で広場整備が行われ、駅前ロータリー土橋際の桜樹を残すだけとなった。そして、昭和3年(1928)頃、見附の石垣や土手が撤去され、麹町側にも初めて駅の改札口が開設された。

 現在、JR四ッ谷駅の快速線のホーム拡幅他工事が2027年1月26日まで行われている。これが竣工したとき、今から130年前の明治29年(1896)に施工された桜植樹の現代版として、JRと千代田区、新宿区で紀念の桜を植え、紀念碑の顕彰をしたらどうだろうか。桜樹は季節感を大事にするなら、クローン故、一度に咲いて散るソメイヨシノが良い。それは1本ではなく、何本か近くに植えるとよい。ソメイヨシノは人の寿命くらいしかもたない。次の世代のために、時代を超えて紀念碑の趣旨が受け継がれる駅と地域であってほしいと願うばかりである。

3 神田川のサクラ

 外濠は、飯田橋で神田川につながる。神田川も江戸城の外堀としての機能を持っていたが、明治6年(1873)には、内神田と外神田を結ぶ万世橋が、石橋で新たに架けられ、そして、明治24年(1891)には、駿河台と本郷台地を結ぶ御茶ノ水橋が初めて鉄橋で架けられた。この橋、川面から17m位の高さがあった。これらのインフラ整備には、風致の向上のため、新しい橋のたもと付近には植樹がなされた。

絵図② 天保15年(1844)頃の『筋違八ツ小路』

 神田川に架かる現・万世橋付近は、江戸期、筋違門があり、門内の広場から日本橋や下谷、小川町、深川方面等と八本の道がつながる交通の結節点であった。

絵図③ 明治16年(1883)測量による万世橋及び周辺図

 明治5年(1872)に筋違門が撤去され、翌年には、その石材を使い筋違橋の上流側に石造りの橋ができた。江戸名所図会のつく者で有名な齋藤月岑は、『武江年表』の明治6年(1873)11月1日で「筋違橋の左に新たに御造営の石橋成就して、万世橋と号せられ、今日より諸人を渡らしめらる(俗に、目がね橋といふ。其かたちによりてしかいふ)。筋違橋・相生橋(現・昌平橋)は廃せられ、此辺の堤をも取崩されたり。此辺、葭簀囲よしずかこいの茶店・箆頭舗 かみゆいどこ等、残らず取払ふ」、そして、明治7年(1874)3月5日の月岑日記には、「筋違内、梅・桜追々うえる、地ならし中也」(『大日本古記録 齋藤月岑日記十』 2016  東京大學史料編纂所編纂)とある。

 図の租税局出張所の場所に筋違門があった。昌平橋から下流の柳原の土手なども全て撤去となった。かつての広場は、植栽がされ、小公園のような景となった。

絵図④ 『東京開化卅六景 駿河台ヨリ眼鏡橋図』

 図は、三代目広重が明治13年(1880)頃に描いたもので、湯島聖堂前辺りから万世橋を見ている。土手が撤去された跡にサクラや松が植えられている。明治6年(1873)末に竣工した銀座煉瓦街の街路樹が桜と松だったように、「文明開化」の景がここにもあるが、明治42年(1909)には、石橋の万世橋は撤去となり、万世橋駅舎(明治45年(1912)4月開業)の工事にともない広場の植栽は全て撤去となった。

写真⑫ 明治40年(1907)頃の御茶ノ水駅の対岸の桜樹

 明治37年(1904)12月、御茶ノ水駅が開業する。駅はお茶の水橋の西側にあった。渓谷のような御茶ノ水は、江戸期、神田側の崖地に植栽はあっても、本郷側は草地で樹木は植えていなかった。明治24年(1891)10月にお茶の水橋が架けられた時、本郷側の橋の袂「崖地には楓樹百数十株を栽へ、以て之を保護し、兼て風致を添へたり」と記録されている。この桜樹はこの時のものかもしれない。

写真⑬ 明治40年(1907)頃、お茶の水橋たもとの桜樹

 橋の西側から川端に降りられる通路が江戸期からあり、ここは、本郷地域への物揚場でもあった。自由に川端まで降りられる通路に沿うように桜樹が植栽されている。今は降りられないが、ここは神田山と称された台地を人力で掘り割った渓谷であり、江戸初期には将軍に献上する「お茶の水」が涌き出ていた「茗渓めいけい」と称される場所だった。

付記 「濠」と「堀」について

 「そとぼり」の表記は、「外濠」と「外堀」がある。江戸期は、「御堀」と表記されていたが、明治になり、地目が整理され、城の堀は、「濠池」に分類されるようになった。このため、明治以降、「おほり」の固有名詞は、「四谷濠」、「市谷濠」、「新見附濠」、「牛込濠」などと称され、「外濠公園」のように土木系施設の固有名詞だけでなく、総称として「外濠」が使われるようになった。

 また、一方、文化財としての史跡名は「江戸城外堀跡」と称されている。これは、江戸期からの表記によるもので、「外堀通り」や「内堀通り」のような固有名詞としても使われている。

 「ほり」の表記としては、文中で示す「もの」や時代によって使い分けられているのが実情である。

著者紹介

小藤田正夫(ことうだ まさお)

東都町造史研究所理事 著書に共著で『外濠』、『コンバージョン、SOHOによる地域形成』、『公民連携のまちづくり事例&解説』、『Things Meiji』などがある。

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